人生いかに生きるべきか
東海大学学園の創立者「松前重義」は、青年時代に「人生いかに生きるべきか」について思い悩み、内村鑑三の研究会を訪ね、その思想に深く感銘を受けたそうだ。特にデンマークの教育による国づくりの歴史に啓発され、生涯を教育に捧げようと決意して「望星学塾」を開設。ここに学園の原点がある。
内村鑑三は、「Boys,be ambitious!」(少年よ大志を抱け)の言葉で有名なクラーク博士の精神が強く残る札幌農学校に学んだ。松前重義が教育の拠点の一つとして北海道を選んだのは、デンマークなど北欧の国々と気候・風土などの共通点があることに加え、クラーク博士、内村鑑三とのつながりがあった。
- 教育理念
- 若き日に汝の思想を培え
- 若き日に汝の体躯を養え
- 若き日に汝の智能を磨け
- 若き日に汝の希望を星につなげ
北海道東海大学は、このような創立者・松前重義博士の精神を受け継ぎ、明日の歴史を担う強い使命感と豊かな人間性をもった人材を育てることにより、「調和のとれた文明社会を建設する」という理想を高く掲げ、歩み続けていくという。
そんな素晴らしき我が母校『北海道東海大学』、気持ちとしては日本全土で知れ渡っていると思いたいところだが、地方出身だと大学名を言っても東京じゃ伝わらないかと思って、自分の出身大学に有名人がいるかどうか調べてみた。
東海大学創立者「松前重義」とは
松前 重義(まつまえ しげよし、1901年(明治34年)10月24日 - 1991年(平成3年)8月25日)は、日本の官僚・政治家・科学者・教育者・工学博士。東海大学創立者。社会党衆議院議員。内村鑑三に師事した、親ソ連派議員。世界連邦建設同盟(現、世界連邦運動協会)会長。山下泰裕のパトロンとして有名である。
| 生年月日 | 1901年10月24日 |
|---|---|
| 出生地 | 熊本県上益城郡嘉島町(旧・大島村) |
| 没年月日 | 1991年8月25日(満89歳没) |
| 出身校 | 東北帝国大学(現・東北大学) |
| 前職 | 逓信省官僚 国際柔道連盟会長 東海大学創立者・理事長・総長 日本対外文化協会会長 |
| 所属政党 | (無所属→) (右派社会党→) 日本社会党 |
| 称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章(1982年昇叙) 勲一等瑞宝章(1971年) 工学博士 |
| 親族 | 長男・松前達郎 二男・松前紀男 三男・松前仰 |
来歴・人物
熊本県上益城郡嘉島町に生まれる。父は嘉島町の前身・大島村長を務めた松前集義。旧制熊本県立熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)から官立熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)を経て東北帝国大学(現・東北大学)工学部電気工学科を卒業。逓信省に高等技官として入省。
官僚時代に#無装荷ケーブル等の画期的な発明をなし、日本の通信技術の進歩に大きく貢献した。1940年に大政翼賛会が発足すると総務部長に就任したが、まもなく辞任。1941年、逓信省工務局長に就任。太平洋戦争開始後の1942年には、航空科学専門学校、電波科学専門学校(後に東海科学専門学校として合併)を創設。
松前は、当初日米開戦には賛成したが、開戦後、日本の生産力ではアメリカに遠く及ばないという現実を知った。この結果を海軍軍令部に報告、東條内閣打倒を触れ回り、1944年には勅任官にであるにも関わらず、二等兵として召集され、南方戦線に送られた(これ以前にも宴席でチフスに感染し、重体となっている)。南方への渡航は危険極まりないものだったが、松前の属する部隊はマニラにたどり着き、復員した。松前の創設した東海科学専門学校は、戦後、旧制大学の東海大学となり学制改革に伴い新制大学の東海大学となる。
戦後、逓信院総裁に就任するが公職追放で辞職。追放解除後、1952年の総選挙で右派社会党から衆議院議員に初当選(以後6回当選)。自ら注力した日本初のFM放送局・FM東海(現・エフエム東京)の処遇を巡っては、逓信省の先輩である小林武治郵政相と訴訟合戦を展開した。
1966年、ソ連政府の提案によるソ連・東欧との交流組織、日本対外文化協会(対文協)を石原萠記、松井政吉らとともに設立し、会長を務めた。ソ連との親密ぶりについて「書記長とサシで電話ができるのは俺だけだ」「科学アカデミーでの講演を頼まれた」と嘯いていた。
柔道界においては官立熊本高等工業学校で寝技主体の柔道、いわゆる高専柔道に励む。1969年、全日本柔道連盟理事に就任。1979年、国際柔道連盟会長に就任。1983年頃から全日本学生柔道連盟陣営として講道館との抗争を長年にわたって繰り広げる。また、ソ連初の野球場モスクワ松前記念スタジアムの建設に尽力するなど、国際交流事業にも投資をおこない、各国の大学から勲章や名誉博士号を多数受けた。
1991年8月25日死去。享年89。
松前一族
長男の松前達郎は元参議院議員で、東海大学総長。二男の松前紀男は元東海大学長、三男の松前仰は北海道東海大学長を務めた。更に達郎長男・松前義昭が東海大学副学長を務め、大学運営には松前家が深く関わっている。
無装荷ケーブル
1932年に松前は、いわゆる「無装荷ケーブル方式」を提案した。
長距離ケーブルにおいては、2線の間のキャパシタンスにより損失がある。そこでケーブルに一定間隔で装荷線輪(ローディングコイル)を挿入しインダクタンスで釣り合いをとる装荷式が使用されたが、伝送帯域が狭い・遅延時間が大きい・信号の反射と言った欠点があり、信号が歪むものであった。
1932年3月『無装荷ケーブルを使用する提案』で、特性補正機能を持った増幅器を使用すれば、遮断周波数が無く広帯域で多重化回 線数を多くでき、反響現象・位相歪等がなく経済的な長距離伝送が無装荷ケーブルで可能であると提案した(しばしば「松前の無装荷ケーブル」と言及される が、無装荷ケーブルそのもの自体の発明ではなく、無装荷ケーブルを利用した高性能で経済的な長距離伝送を可能とするシステム、特にそのような特性を持った 補正増幅器が肝であることに注意)。
同年に小山 - 宇都宮間でこれによる多重電話伝送の実験が行われた。世界初の長距離無装荷ケーブル架設工事が東京 - ハルビン間で1935年に開始され1937年に完了した。同じく1937年に満州国において、同方式による安東(現 : 丹東市)と奉天(現 : 瀋陽市)の間の長距離電話通信が成功した。
著書
- 『二等兵記』(東海大学出版会、ISBN 978-4486003380)
- 『松前重義著作集』(全10巻、東海大学出版会)